はじめに
今でこそ「セクハラ」は誰もが知る言葉ですが、日本でこの言葉が広く知られるようになったのは1989年のことです。そのきっかけのひとつが、福岡の出版社で働いていた女性が起こした裁判でした。この裁判は、セクハラを理由とする日本初の民事裁判として知られています。
この裁判は、「セクハラは行為者個人の問題だ」という考え方に対して、会社の責任をはっきりと認めた点でも重要です。そして、そこで示された考え方は、約30年たった今の企業にもそのまま当てはまります。
この記事では、次の内容をまとめました。
- 福岡セクシュアル・ハラスメント事件の概要
- 判決で会社が問われた責任
- その後の法改正の流れ
- 今の会社がこの事件から学べること
なお、この記事では当事者の氏名や会社名は取り上げません。判決の内容は、公的機関が公開している判例の要約にもとづいています。
福岡セクシュアル・ハラスメント事件の概要
福岡セクシュアル・ハラスメント事件は、1989年8月に提訴され、1992年4月16日に福岡地方裁判所で判決が出た民事裁判です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 提訴 | 1989年8月 |
| 判決 | 1992年4月16日、福岡地方裁判所 |
| 原告 | 出版社で働いていた女性社員 |
| 被告 | 出版社(会社)と、原告の上司 |
| 結果 | 上司の不法行為と会社の使用者責任を認め、会社と上司に連帯して165万円の支払いを命じた |
何があったのか
判例の要約によると、事案の流れは次のとおりです。
- 上司は、部下である原告を辞めさせようとして、社内外の関係者に「原告の異性関係が派手だ」という噂を流しました。
- さらに上司は、会社の専務に対し、取引が途絶えた原因は原告と取引先の担当者との男女関係のもつれだと、事実と異なる報告をしました。原告には退職を求めていました。
- 原告と上司の関係が悪化して業務に支障が出たため、専務はどちらかを退職させることにし、まず原告に退職を迫りました。
- 原告は退職を申し出ました。一方、上司は出勤停止の処分だけで済みました。
ここで注目したいのは、身体への接触のような行為ではなく、「性的な噂を流す」という言動が問題になった点です。そして、問題が起きたあと、会社が被害を受けた女性の方を退職させる形で事態を収めようとしたことも、裁判で問われました。
「日本初のセクハラ裁判」と呼ばれる理由
当時の日本には、セクハラを理由にした民事裁判の例がありませんでした。この裁判は、職場での性的な言動による被害を「セクシュアル・ハラスメント」として正面から問う、日本で初めての民事裁判とされています。
提訴と同じ年の1989年には、「セクシャル・ハラスメント」が新語・流行語大賞の新語部門金賞に選ばれています。この裁判は、言葉が社会に広まるきっかけのひとつになりました。
前例のない裁判だった
報道によると、原告の女性は、日本にはセクハラを理由にした民事裁判の例がない中で、アメリカでは裁判所が「雇用における性差別の禁止に違反する」と認めた例があることを知り、「セクハラで闘う」と決めたとされています。裁判は弁護団と支援の会に支えられて進められ、原告が自らの名前を明かしたのは、判決から4年後のことだったといいます。
被害を受けた側が声を上げることの難しさは、今も大きくは変わっていません。だからこそ、会社の側から「相談してよい」と伝え、相談できる仕組みを用意しておくことに意味があります。
判決のポイント:会社が問われた責任
この判決では、行為者である上司だけでなく、会社の責任も認められました。その理由は大きく3つに分けられます。
1. 上司の言動は「人格権の侵害」
判決は、上司の言動が原告の働く女性としての評価を下げ、最終的に退職に追い込んだと認定しました。そのうえで、原告の意思に反して名誉感情などの人格権を侵害し、職場環境を悪化させたとして、不法行為を認めています。対立する相手を職場から排除する手段として性的な噂を使った点が、重く見られました。
2. 会社の「使用者責任」
上司の言動は業務の執行について行われたものとされ、会社も使用者として責任を負うと判断されました。社員が仕事に関連して行ったハラスメントは、会社の責任にもつながるということです。
3. 「職場環境配慮義務」を怠った
この判決でとくに重要なのが、この3つ目です。判決は、使用者には、社会通念上、働きやすい職場環境を保つよう配慮する注意義務があるとしました。
そのうえで、専務らが職場環境を調整する配慮を怠り、主として女性である原告の譲歩や犠牲によって事態を収めようとした点にも、不法行為性を認めました。つまり、「問題が起きたあとの会社の対応」そのものが、責任を問われたということです。
損害賠償の額
判決は、慰謝料150万円と弁護士費用15万円の合計165万円を、会社と上司が連帯して支払うよう命じました。金額だけを見ると大きくないように感じるかもしれません。しかし、この判決の意味は金額よりも、問題が起きたあとの会社の対応そのものが裁判で問われた点にあります。
その後:セクハラ対策が法律になるまで
福岡の判決が出た1992年の時点では、会社にセクハラ対策を求める法律の規定はありませんでした。その後、男女雇用機会均等法の改正を重ねて、会社の義務は少しずつ重くなっていきました。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1989年 | 福岡の裁判が提訴される。「セクシャル・ハラスメント」が新語・流行語大賞の新語部門金賞に |
| 1992年 | 福岡地方裁判所が会社の使用者責任を認める判決 |
| 1999年4月 | 改正男女雇用機会均等法が施行。会社にセクハラ防止の「配慮義務」が課される(対象は女性労働者) |
| 2007年4月 | 再改正法が施行。配慮義務から、必要な措置をとる「措置義務」に強化。対象が男女労働者に広がる |
| 2020年6月 | パワハラ防止が大企業の義務に。セクハラなどの防止対策も強化される |
| 2022年4月 | パワハラ防止が中小企業の義務に |
| 2026年10月 | カスハラと、求職者に対するセクハラ(就活セクハラ)の防止が、すべての事業主の義務に |
福岡の裁判から約30年で、会社に求められるものは「配慮」から「措置」へ、対象は女性からすべての労働者へ、そして社内の人間関係から顧客や求職者との関係へと広がってきたことになります。
判決の考え方は、今の措置義務につながっている
今の男女雇用機会均等法にもとづく指針では、会社に対して、方針の周知、相談体制の整備、事後の迅速かつ適切な対応などを求めています。福岡の判決が問題にした「事後の対応」や「被害者の犠牲で事態を収めること」は、今の指針でいえば「事後の迅速かつ適切な対応」や「被害者への配慮」に当たる部分です。
今の会社がこの事件から学べること
30年以上前の事件ですが、判決が問題にした点は、今の職場でも起こり得ることばかりです。
1. 「触っていない」から大丈夫ではない
この事件で問題になったのは、性的な噂を流すという「言葉」による行為でした。今でも、容姿や異性関係についての噂話、飲み会での性的な冷やかし、チャットでの不用意な発言などは、身体に触れていなくてもセクハラに当たり得ます。
2. 「どちらかに辞めてもらう」は解決ではない
会社がとった「どちらかを退職させる」という対応は、一見すると中立に見えます。しかし実際には、被害を受けた側が退職し、行為者は出勤停止で済む結果になりました。問題が起きたときには、双方から話を聞いて事実を確かめ、被害者への配慮と行為者への措置を分けて考える必要があります。
3. 経営陣の対応が問われる
この事件では、行為者だけでなく、専務ら経営陣の対応も不法行為と認められました。経営者や役員が「現場のもめごと」として早く収めようとすると、その判断自体が会社の責任になりかねません。経営陣こそ、ハラスメントへの対応の基本を知っておく必要があります。
4. 上司が行為者になると、訴えにくい
この事件の行為者は、原告の上司でした。上司が行為者の場合、部下は評価や配置への影響をおそれて、相談をためらいます。直属の上司を通さずに相談できる窓口を用意し、その存在を従業員に知らせておくことが大切です。管理職の言動については、シリーズ2本目の「上司の言動はどこからアウトか」で詳しく取り上げています。
5. 「噂」は今の職場でも起きやすい
福岡の事件の中心にあった「性的な噂」は、今の職場ではむしろ広がりやすくなっています。たとえば、次のような場面です。
- 社内チャットや個人のメッセージアプリで、特定の社員の異性関係を話題にする
- 取引がうまくいった社員について、「取引先の担当者と何かあるのでは」と勘ぐる
- 飲み会で、本人がいないところで私生活をあれこれ話す
- 人事評価や配置の話し合いで、仕事と関係のない私生活の噂を持ち出す
こうした噂は、本人の知らないところで広がるため、訴えが出たときにはすでに職場全体に知れ渡っていることが少なくありません。「口で言っただけ」「元から噂になっていた」という理由で放置せず、早い段階で止めることが大切です。
教育と記録が会社を守る
今の会社には、セクハラを防ぐための措置をとることが法律で求められています。従業員と管理職に「何がセクハラに当たるか」「相談を受けたらどう動くか」を学んでもらい、その記録を残しておくことは、問題が起きたときに「会社として何をしていたか」を示す材料にもなります。
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判決当時と今の違い
福岡の判決が出た1992年と今とでは、会社が求められることが大きく違います。
| 項目 | 1992年(判決当時) | 2026年現在 |
|---|---|---|
| セクハラに関する法律の定め | なし | 男女雇用機会均等法で、会社に防止の措置義務 |
| 対象となる人 | ― | 男女を問わずすべての労働者。求職者へのセクハラも含む |
| 会社の責任の問われ方 | 使用者責任や職場環境への配慮など、民法上の責任 | 民法上の責任に加え、措置義務にもとづく行政の助言・指導・勧告 |
| 他のハラスメント | 法律上の定めなし | パワハラ、マタハラ、ケアハラ、カスハラ、就活セクハラにも防止措置が必要 |
法律の定めがなかった時代にも、裁判所は会社の責任を認めました。法律で義務が定められた今は、会社が「知らなかった」「個人の問題だと思った」と説明しても、通用しにくい状況になっています。
経営者のための初動チェックリスト
福岡の事件では、問題が起きたあとの経営陣の判断が問われました。社内でセクハラの訴えがあったときに、経営者が確かめたい点をまとめました。
- 訴えた社員から、周囲に聞かれない場所で話を聞いたか
- 行為者とされた社員からも、別に話を聞いたか
- 聞いた内容を、日時とともに記録したか
- 「どちらかに辞めてもらう」「当事者どうしで話し合わせる」といった対応で済ませようとしていないか
- 訴えた社員が、評価や配置で不利益を受けないようにしているか
- 就業規則にもとづいて、行為者への対応を検討しているか
- 必要に応じて、弁護士や社会保険労務士に相談しているか
- 同じことが起きないよう、方針の周知や研修をあらためて行う予定があるか
このうちひとつでも「できていない」項目があれば、問題が起きる前に社内の手続きを決めておくことをおすすめします。
経営者が今日からできること
問題が起きてから慌てないために、経営者がすぐに取り組めることを3つ挙げます。
- 経営者自身の言葉で方針を伝える:「うちの会社ではハラスメントを許さない」「相談した人が不利になることはない」と、朝礼や社内メールではっきり伝えます。就業規則に書くだけでなく、経営者の口から伝えることで、従業員の受け止め方は変わります。
- 相談先を複数用意する:直属の上司が行為者の場合を考え、上司以外にも相談できる先を決めておきます。男女の担当者を置く、社外の窓口を併用するといった工夫もあります。
- 教育を一度きりにしない:年に一度の研修だけでは、新しく入った社員や異動した社員に届きません。従業員と管理職がいつでも学べて、その記録が残る仕組みにしておくと、「会社として何をしていたか」を示しやすくなります。
よくある質問
Q. 日本初のセクハラ裁判はどの裁判ですか?
1989年に提訴された「福岡セクシュアル・ハラスメント事件」が、セクハラを理由とする日本初の民事裁判として知られています。1992年4月16日に福岡地方裁判所で判決が出ました。
Q. 判決ではどのくらいの賠償が命じられましたか?
慰謝料150万円と弁護士費用15万円の合計165万円を、会社と上司が連帯して支払うよう命じられました。
Q. なぜ会社にも責任があると判断されたのですか?
上司の言動が業務の執行について行われたものとされたことに加え、経営陣が働きやすい職場環境を保つ配慮を怠り、被害を受けた女性の犠牲で事態を収めようとしたためです。
Q. この事件のあと、法律はどう変わりましたか?
1999年に、男女雇用機会均等法でセクハラ防止の配慮義務が施行されました。2007年には措置義務に強化され、対象が男女労働者に広がりました。2026年10月からは、就活セクハラを防ぐ措置も義務になっています。
Q. 映画「ファーストボイス」との関係を知りたい
当サイトの記事「ファーストボイス」についての記事で、映画について紹介しています。
Q. 身体に触れていなくても、噂話だけでセクハラになりますか?
なり得ます。福岡の事件でも、問題になったのは性的な噂を流すという言動でした。性的な内容の噂や発言で就業環境が害されれば、環境型のセクハラに当たり得ます。
Q. 行為者が上司ではなく同僚の場合も、会社の責任になりますか?
なり得ます。セクハラの防止措置は、上司と部下の関係に限らず、同僚どうしや取引先との関係で起きるものも対象です。会社が事実を把握しながら対応しなければ、会社の措置や配慮が問われます。
Q. 「職場環境配慮義務」とは何ですか?
福岡の判決では、使用者には、社会通念上、働きやすい職場環境を保つよう配慮する注意義務があるとされました。ハラスメントを予防し、起きたときには適切に調整することが会社に求められる、という考え方です。
Q. 小さな会社でも、同じように責任を問われますか?
福岡の事件の被告も、大企業ではなく地方の出版社でした。男女雇用機会均等法のセクハラ防止措置は、会社の規模を問わずすべての事業主が対象です。少人数の会社ほど経営者と従業員の距離が近いため、経営者の対応がそのまま会社の対応として問われます。
まとめ
福岡セクシュアル・ハラスメント事件は、セクハラを理由とする日本初の民事裁判として知られています。1992年の判決は、行為者である上司だけでなく、働きやすい職場環境を保つ配慮を怠った会社の責任も認めました。
その後、セクハラ対策は法律で会社に義務づけられ、今ではパワハラ、カスハラ、就活セクハラへと対象が広がっています。ただし、「問題が起きたときに会社がどう動いたか」が問われるという点は、この裁判のころから変わっていません。
シリーズの1本目「コンプライアンス違反とハラスメントの関係」、2本目「上司の言動はどこからアウトか」もあわせてご覧ください。
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